2021-03-08 第204回国会 参議院 予算委員会 第6号
これ、どういう薬かといいますと、二〇一五年に大村博士がノーベル賞を取った、この薬の開発によってノーベル賞を取ったということで、日本発の薬ではありますけれども、ちなみに、この原料というのは、静岡県伊東市川奈のゴルフ場の横の土から出てきた、その細菌から作ったお薬なので、名実共にこれ日本産なんですね、最初の開発については。
これ、どういう薬かといいますと、二〇一五年に大村博士がノーベル賞を取った、この薬の開発によってノーベル賞を取ったということで、日本発の薬ではありますけれども、ちなみに、この原料というのは、静岡県伊東市川奈のゴルフ場の横の土から出てきた、その細菌から作ったお薬なので、名実共にこれ日本産なんですね、最初の開発については。
そうすると、基本的には、これも細かい話ですが、橋本総理、そうおっしゃっている江田さんにしても、モスクワとクラスノヤルスクで、こちらが川奈ということになりますよね。そうすると一対二になるんだけれども、別に、私はそんなの、クラスノヤルスクと、あと……(江田(憲)委員「デンバー、クラスノヤルスク、川奈で一対一対〇・五です」と呼ぶ)モスクワには行っていなかったんだっけ。
よく言われますが、一九九八年のエリツィン・橋本会談、川奈会談、本当に、あのころ以上の今もう機が熟しているんじゃないか、ことしなければ来年もないと言われるような状況になっているのではないかと思いますが、総理がこの北方領土問題をことしどうしても解決するんだと、強い思いであるかどうかということをまずお聞きをさせていただきたいというふうに思います。
○岡田委員 その後も、四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を締結するという考え方は、エリツィン大統領、クラスノヤルスク首脳会談や川奈首脳会談、それから、プーチン大統領、イルクーツク首脳会談、小泉総理の訪ロ時の日ロ行動計画などで何度も確認をされてきている。これは事実関係としてお認めになると思います。 例えば、二〇〇三年の日ロ行動計画の中で、こういうふうに表現されていますよね。
日本でも、川奈会談の提案は、ある意味で、択捉島の北に国境線を認めれば返還の時期、様態は柔軟に考えるという、そういう提案をされたと、これはまだ公式的ではないんですが、関係者は皆述べておりますが、それはおっしゃる意味での潜在主権だと思うんですけれども、私は、しかし、今、日本の政府はそれを公式の立場にはしていないし、してはならないと思っている。東京宣言のしっかり立場を守るべきだと思っているんです。
法と正義に基づいてこの四島の問題を協議していくということに始まって、橋本龍太郎総理も大変な御苦労をして川奈提案という形で、まずはこの国境線を引こうという形で、択捉島と得撫島という、今もロシア領ですけれども、その間に国境線を引くという提案、これもエリツィン大統領から最終的には拒否されるような形で終わっています。
しかし、その後、先ほど御紹介いただいたように、一九九一年の海部・ゴルバチョフ、そして九三年の細川・エリツィン、九八年のエリツィン・橋本、これはいわば川奈合意と言われているものがございます。そして、森総理とプーチン大統領によるイルクーツク声明があったわけでございます。そして、その後の二〇〇三年の小泉総理とプーチン大統領による日ロ行動計画と進んできたわけでございます。
この日ロの平和条約については、また四島の帰属の問題については、五六年の宣言以来、それ以降は、ソビエト時代は領土問題は存在しないというソ連側の日本側への返答がずっと続いたわけでございますが、その後、エリツィン大統領が登場し、そして橋本さんとの間で、例えば川奈における会談等で打開されていくかと、こう思われたんですが、これがなかなか難しかった。
今回、総理はプーチン大統領と十一回ですか、会談をなされてきたと思うんですけれども、私はきょう朝の質問などを聞いていて思うんですけれども、一九五六年の十月の日ソ共同宣言とか、一九九一年、ソ連の崩壊後の交渉だとか、東京宣言が九三年、川奈提案、そして森・プーチン会談と、何回か歴史的な会談が行われていますけれども、この会談の中で日本の総理大臣が四島の帰属を明確にしないで交渉したという経緯はあるんでしょうか。
川奈合意ができかかったのはそのような方式でございましたけれども、私は、これはロシア側にも解決しなければいけないという意思がある限りは、決して一〇〇%不可能な話ではないと存じます。ロシアは中国との間の国境紛争も解決してまいりました。しかし、基本的に今のように日ロ関係のベースが希薄であるときには、なかなか向こう側も日本とどうしても合意しなければいけないという必然性を感じないわけであります。
私は前にもこの外務委員会で言ったように、徹底して時間を割いて、例えば川奈でそうであって、その前もそうであったように、一泊してもらって、両首脳が腹を割って、十時間、十二時間、通訳を入れたら半分ですよ、六時間だから。
それから、川奈会談を例に挙げられましたけれども、それに比しまして、今回の会談時間はそれより実質的には長かった、そういうふうに思っております。
この間の日ロの領土交渉、私もずっと見ていますが、川奈会談のあの結末は、その後を継がれた亡くなられた小渕総理がモスクワへ行かれて、実は四島をもってその向こうに領土を引くという線は実は拒否をされた。そして、その後、当時の森総理大臣が行かれて、これはクラスノヤルスクだったか、イルクーツクでですね、そこではまず二島は確認して、そこから先どうするかということ。 総理は後者の方を取られている。
それから、日本でその後、それを踏まえて川奈合意がなされた。そして、二〇〇〇年ですね、二〇〇〇年、もう過ぎました、この二〇〇〇年を目標に四島帰属問題を解決しようと、こういう合意がなされたんですよね、川奈合意で。それから、平和条約締結問題日ロ合同委員会をつくろうと、ここで具体的な協議をしていこうと、こういうことも決められました。
○風間直樹君 そうしますと、かつて川奈提案でなされたと、これは巷間言われているんですけれども、択捉島と得撫島の間に国境線を引くというのが一つの選択肢と、このように受け止めてよろしいんでしょうか。
その日本政府のアプローチのベースとして、かつて川奈における橋本総理とエリツィン大統領との間で日本政府から提案された川奈提案、これをベースとするお考えがあるのかどうか、そこをお尋ねしたいと思います。
○国務大臣(中曽根弘文君) 川奈提案の実際の、今、川奈提案とおっしゃっておられますけれども、これにつきましては対外的に公表もいたしておりませんし、これは交渉の問題でございますので、お答えについては差し控えさせていただきたいと、そういうふうに思います。
○鈴木(宗)分科員 確認しますけれども、では、独創的で型にはまらない新たなアプローチの中に、今二〇〇一年のイルクーツク声明も言われましたが、川奈提案はどうなんでしょうか。
○谷崎政府参考人 川奈提案そのものの日本政府の方の位置づけでございますけれども、これはまさに提案ということでございます。平和条約締結問題そのものが交渉中の案件ということでございますので、この川奈提案等の提案、先方と合意したというものではないものについての位置づけということについては、我々としてこの段階でコメントすることは差し控えたいというふうに存じます。
○鈴木(宗)分科員 少なくとも、この領土問題解決の上で、川奈提案とイルクーツク声明は、大臣、日本にとって有効な手段、考え、そしてまた国益に沿った提案だったし、話であった、私はこう思っているんですよ。
そこで、総理、私は、領土問題の解決に当たっての提案は川奈提案とイルクーツク提案があったと思うんです。これを撤回する、あるいは、これをほごにするということはないという認識もよろしいでしょうか。
その結果、橋本さんの川奈会談も、例えば、まだこれは交渉中ですから、私は詳細を知っていますけれども中身は触れませんけれども、国境線を画定すれば、島の返ってくる時期はまた別途協議という言い方にもなっているんです。 だから、私は、そういった意味では段階的解決論だという認識ですけれども、それでよろしいですか。
川奈会談、クラスノヤルスク声明、あるいはまたモスクワ宣言等もありまして、もちろん、東京宣言がその基礎になっておるわけでございます。しかし、二〇〇〇年代に入って、非常に停滞といいますか、特に小泉政権になってから停滞になっておるのではないか、私はこういうふうにとらえておるわけであります。
○伊達忠一君 なかなか、大臣の口からは成果が上がっているとか上がっていないとかということはまあなかなか言いにくいんでしょうけど、今大臣がおっしゃったように、いわゆる九三年の東京宣言、それからまた、引き続いての九八年の川奈、橋本・エリツィン会談、それから日ロ行動計画、ここぐらいまでは大変盛り上がった私は返還運動を皆さん、国民の意識の中に持っておられたなという感じがするんですが、その後はどうも私はむしろ
○渡辺(周)委員 この質問についてはこれで終わりにさせていただきたいと思いますけれども、実は、私の新選挙区であります伊豆半島というところは、先日亡くなられたエリツィン大統領が伊東の川奈に来て、太鼓の音色の中で一緒に演奏したり、そこではやはり亡くなられた橋本元総理とエリツィン会談が行われまして、大変歴史的にも重要な役割を果たした。